書籍・雑誌

浮世離れ?

定年退職が間近になると、人は皆肩の力が抜けるのだろうか?

定年とは一種の浮世離れだろうか?とこれを読んでいてふと思った。

なお、政吉はその後必ずしも幸福な日々を送れるわけではない。

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「深川澪通り燈ともし頃」北原亜以子作より

 考えてみりゃ---と、政吉は思った。笑兵衛も弥太右衛門も五十過ぎではないか。お捨も四十の坂の終わりにさしかかっている筈だ。

 政吉はまだ、三十の声を聞いていない。狂歌師としても、脂ののりはじめたところであった。

 これから一花咲かせようという人間が、米屋のシロ(犬)が迷子になったの、太ったかぐや姫では月の都に行く前に落ちてしまうのだの、浮世離れした話に笑ってばかりはいられない。

 お捨笑兵衛も、弥太右衛門も、言ってみれば一生のほとんどを使いはたした人間ではないか。ささやかであったか大輪であったかは知らないが、それぞれ花を咲かせていた時期を過ぎて、木戸番やいろは長屋の差配に落ち着いたのだ。

 三人が、ふたたび花を咲かせる機会は、まずない。江戸の片隅に押しつけられていても、つぼみを開かせる場所がないとあせる必要は、毛頭ないのである。

 もはや咲かぬとわかっていれば、人の咲かせた花を見て、妬む気持ちもないだろう。片隅で肩を寄せ合って、米屋のシロが見つかったことを喜んでいればいい。

 蜆売りから旗本屋敷の中間へ、そして塩売りから煙草屋の亭主へと這い上がってきた俺は、これから一花も二花も咲かせる。米屋のシロが見つかって、病気の娘が元気を取り戻したと聞けば嬉しくないことはないが、病気の娘とシロの身の上を案じていられないときもある。

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赤ひげ診療譚_山本周五郎

黒澤明監督作品「赤ひげ」の原作ということで興味深く読んだ。どうしてこれを映画にしようと考えたのかとか...

映画の中のエピソードには含まれない話も、翻案されて違った内容になっている話もあるが、赤ひげの人柄や信条や思想、それに保本登が人間として成長していく姿は同じだった。

著作者山本周五郎の社会の底辺で暮らす人々を見る目は温かくもあり、一方では極めて冷静だ。

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「徒労に賭ける」から:

 この世から背徳や罪悪を無くすことはできないかもしれない。しかし、それらの大部分が貧困と無知からきているとすれば、少なくとも貧困と無知を克服するような努力がはらわれなければならない筈だ。

「そんなことは徒労だというだろう。おれ自身、これまでやって来たことを思い返してみると、殆んど徒労に終わっているものが多い」と去定(赤ひげ)は云った、「世の中は絶えず動いている、農、工、商、学問、すべてが休みなく、前へ前へと進んでいる、それについてゆけない者のことなど構ってはいられない、-だが、ついてゆけない者はいるのだし、かれらも人間なのだ、いま富み栄えている者よりも、貧困と無知のために苦しんでいる者たちのほうにこそ、おれは却って人間のもっともらしさを感じ、未来の希望が持てるように思えるのだ。」

 人間のすることにはいろいろな面がある。暇に見えて効果のある仕事もあり、徒労のようにみえながら、それを持続し積み重ねることによって効果のあらわれる仕事もある。おれの考えること、して来たことは徒労かもしれないが、おれは自分の一生を徒労に打ち込んでもいいと信じている。そこまで云ってきて、急に去定は乱暴に首を振った。

「おれはなにを云おうとしているんだ、ばかばかしい」そしてまた髯をごしごし擦った....

「鶯ばか」から:

貧しい人たちはお互い同士が頼りである。幕府はもちろん、世間の富者もかれらのためにはなにもしてはくれない。貧しい者には貧しい者、同じ長屋、隣り近所だけしか頼るものはない。しかし、その反面には、やはり強い者と弱い者の差があるし、羨望や嫉妬や、虚飾や傲慢があった。そのうえ、いつもぎりぎりの生活をしているため、それらは少しの抑制もなく、むきだしにあらわされるのが常であった。

-いつもは一と匙の塩を気楽に借りる仲でも、極めてつまらない理由、-たとえば、こっちへ向いて唾をしたとか、朝の挨拶が気に入らなかったとか、へんにつんとしていた、などというたぐいのことで、いっぺんに仇敵のように憎み出すのである。かれらがお互いに、自分を捨てても助け合おうとする情の篤さは、生活に不自由のない人たちには理解ができないであろう、と同時に、彼らの虚飾や傲慢や、自尊心や憎悪などの、素朴なほどむきだしなあらわしかたも、理解することはできないに相違ない。

「氷の下の芽」から:

-罪を知らぬ者だけが人を裁く。

-罪を知った者は決して人を裁かない。

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新潮文庫の目次から

狂女の話

駈込み訴え

むじな長屋

三度目の正直

徒労に賭ける

鶯ばか

おくめ殺し

氷の下の芽

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日日平安

映画「椿三十郎」の原作が収められた山本周五郎の「日日平安」(新潮文庫、S46年発行第69刷)を読んだ。

この文庫本は後述の11の短編集であり、そのどれもがとても面白い。その中で黒澤明監督の映画の原作となったのが「日日平安」であるが、読んでみると映画のストーリーとは違っている点が多々ある。すなわち黒澤映画は原作を翻案したものである。

原作は自分の空腹を満たしたい一心から切腹の芝居をした菅田平野(すがたひらの)がそれをきっかけにとある藩の騒動に巻き込まれ、彼の建策により悪者一味から城代家老を救出して藩の騒動を治めることに貢献するというものである。城代家老陸田(くがた)の一家(特に奥方と娘)はみなのんびり、おっとりした性格でその生き様がタイトルの日日平安(にちにちへいあん)となっている。

したがって、大筋は原作のストーリーが使用されている。しかし、菅田平野は椿三十郎(三船敏郎や織田裕二)のようにはかっこよくなさそうだ。剣の腕が立つといういう風にも描写されていない。また藩の危機を救おうと立ち上がる若侍たちや、悪者の方のリーダーや剣の遣い手、それに紅白の椿の花やそれを小川に流して合図にするなどという映画での印象的なシーンは出て来ない。

しかしながら、映画特有の脚色を施したものよりも、より現実的で登場人物の人間性や人と人との関わり方などが読後に印象深く残るのである。

黒澤明たちがこれを映画化しようと考えた理由をこれから追究してみようと思う。

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今週NHK「この人にあいたい」で黒澤明をやった。「物を作る人間として妥協せず一生懸命にやることは当然だ。」のように語っていたのが印象に残った。

傑出した映画監督だが、50代を含む15年ほどは不遇の時代を経験した。

今手元に「映画についての雑談」という氏の手記のコピーがある。絶版となっている氏の著作「天使のように繊細に悪魔のように大胆に」が国会図書館に収蔵してないかをT君に確かめて貰ったときに、親切にもコピーを取ってきてくれたものである。興味津々である。

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収録された短編

1.城中の霜 武家もの。橋本左内の最期。

2.水戸梅譜 武家もの。日本人の忠君思想。

3.嘘アつかねえ 下町もの。個人的にはとても気に入った作品。女と女房の違い、それに翻弄される男・亭主の悲哀。

4.日日平安 武家ものの滑稽もの。

5.しじみ河岸 恋人を殺したと自白したお絹の「生きることに疲れた」の言葉に律之助はやりきれない思いに囚われる。

6.ほたる放生 岡場所もの。船頭藤吉が真剣に思いを寄せるお秋には性悪な情夫村次がいた。

7.末っ子 末っ子はとかく甘やかされるとの世俗的理由で、実際は厳しく扱われて育った小出平五は七歳のときから貯蓄を始め、御家人株を買って独立しようとするが、最後は武士を捨てて恋人も見つけ骨董屋になる。 

8.屏風はたたまれた 早くから秀才と呼ばれイケメンでもある吉村弥十郎は藩公の血筋を引いている。青年となってなるべく目立たぬように生きる術を身に付けていたが、ある日文が届き、それから不思議な体験をする。その体験を忘れる決意をするとき彼の心はあたかも屏風がたたまれてゆくように感じられた。

9.橋の下 武家もの。これも印象深い一編。橋の下の乞食夫婦の亭主がこれから果し合いに臨もうとする若者に自分の体験を語って聞かせる。一人の女のために親友を斬ったが、若い日に自分がやったことはそれほど価値があるものだったか?と。

10.若き日の摂津守 奸臣に囲まれた藩の中では自分が暗愚であることが保身となった藩主、摂津守。バカ殿に見えるように育てられたため、成人しても流れ出るよだれを止めることはできず、絶えず袖で口の周りを拭く。吃り吃りしゃべる。しかし、彼には隠している本心があった。

11.失蝶記 大砲の暴発で聴力を失った青年武士谷川主計(かずえ)は裏切り者の罠に掛けられ盟友杉永幹三郎を夜陰の中で斬って死なせてしまう。その殺人の罪と杉永の敵討ちとしてかっての仲間と盟友の婚約者に追われる。追い込まれた谷川は... 

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人生は思っていたより塩辛い_海鳴り(下)より

『-おれも、益吉も.....。

人生の重荷を背負ったまま、年取ることになりそうだな、と新兵衛は思った。わずかのひまも惜しんで懸命に働いていたころは、若いうちに怠けずに働いておけば、やがて安楽な老年を迎えることができるだろうと、そのことを疑いもしなかったのだ。だが、人生はいま少し塩辛くできていたようである。』

主人公の新兵衛は四十台後半の中年オヤジ。紙問屋の商いをしており、社会的、経済的、仕事的には比較的恵まれている男だ。これまでに一度妾を囲ったこともある。今は人妻と浮気もするようになった。一方で、家族には恵まれていないと思っている。妾を囲った出来事以来妻との関係は冷え、一人息子は期待を裏切るばかりである。一人娘だけが心のやすらぎを与えてくれる。なお、当時不義密通はばれると死罪に値する。死罪にならなくとも世間の評判を落として商いの道は閉ざされる。いまや新兵衛は自らもリスクを背負っているのだ。

自分との比較で、全ての項目で格差がありすぎてなかなか感情移入できない奴である。

自分などは年齢以外に新兵衛に勝ってると思う項目がほとんどない。さらに老親の面倒や夫婦の老後の不安が加わると月とスッポンだ。

が、しかし、彼がときどきみせる心情に思わず共感することがあるのだ。そして、冒頭の文は「うーん」とうなった文章のひとつである。新兵衛との境遇の格差問題を離れて、己自身の来し方行く末を思うとまさに自分もそうではないかと。

自分の過去を振り返るとき、ある時選択を間違ったのではないかと疑心に囚われることがある。一方、自分を取り巻く環境も絶えず変化した。どちらかというと自分にとってはネガティブな要素が多かったか?と恨む気持ちも無いではない。しかし、それらも結局は己の才覚の至らなさの結果であるか?

今世間は再び不景気の底に沈んでいて、経済も政治も当てにならないとの不安が世を覆っているようだ。こういう時代には冒頭の文章に共感を覚える人々も多いのではないかと思う。あるいは、若くして既にそのような心境が理解できるという者も少なからず居るようだ。驚くべきや悲しむべきや。

この文庫本の初版は1987年10月10日とある。世はバブルの頃だ。藤沢周平は世間の熱狂に浮かれることなく、このような思いや考えを抱いていたのか。

人生のたそがれにおける気の塞ぐ思いは、自分の周りの問題ではなく、自分自身の中にある問題なのかもしれない。

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山河 (小椋桂)

歳月は 心に積まれ 山と映り
歳月は 心に流れ 河を描く
そこに 積まれる時と 流れる時と
人は誰れもが 山河を宿す

ふと想う 悔しひとつなく悦びの山を築けたろうか
くしゃくしゃに嬉し泣きする かげりない河を抱けたろうか
愛する人の瞳に 愛する人の瞳に
俺の山河は美しいかと

(一番の歌詞は今は歌えず)

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最近良く聴く元気が出る曲

Somewhere over the rainbow
Way up high
There's a land that I heard of
Once in a lullaby

Somewhere over the rainbow
Skies are blue
And the dreams that you dare to dream
Really do come true

Some day I'll wish upon a star
And wake up where the clouds are far behind me
Where troubles melt like lemondrops
Away above the chimney tops
That's where you'll find me

Somewhere over the rainbow
Bluebirds fly
Birds fly over the rainbow
Why then, oh why can't I?

If happy little bluebirds fly
Beyond the rainbow
Why, oh why can't I?

"オーヴァー・ザ・レインボー" コニー・タルボット; CD買った。

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GW中に目に留まった本のこと

北原亜以子氏の「深川澪通り木戸番小屋」をGW中に読み始めた。シリーズ本で3冊くらいあるようだ。

氏の小説を読もうとしたきっかけはNHKのドラマ(慶次郎縁側日記)である。そのときにまとめ買いしたままになっていた文庫本を手にとって見ていて、連休中にこのタイトル本から読むことにした。前記ドラマになったシリーズとは違うが、泉鏡花賞を受賞した名作集とのことである。

まず読んでみて、地理描写はまさしく深川江戸切り絵図のとおりである。主人公であるそこに住む木戸番夫婦の生活ぶりは深川江戸資料館で見てきた街並みそのままではないかと思われる。

人の心理や感情や人情が女性らしい繊細なタッチで描写される。短編でもあり読み始めると最後まで読み進まずに居られなくなる。

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著者北原氏はかって池波正太郎が怖かったと語っていたのを何かで読んだことがある。初対面のとき池波先生曰く「気障りだ。」(だったかな?)との評を下さったとか。

確かに池波氏の鬼平や小兵衛やらに出てくる人情話とは異質である。また藤沢周平とも違う感じである。今後いくつかの作品を読んでそれらの間の違いが何であるかを読み解いてみようと思う。

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ところで連休中立ち寄った本屋で、池波正太郎の「江戸切絵図散歩」(新潮文庫)が目に止まり、手にとって見たが、地図が小さくて文字が滲んで読めないので買うのをやめた。Amazonでハードカバー本があることが分かったのでそちらの購入を検討してみることにした。

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本つながりで忘れないように書き留めるが、連休中家内の花粉症の薬の処方箋を貰いに近所の開業医さんに立ち寄ったとき、待合室で上州弁に関する本を何冊か見た。著者は同じ人だった。その中で「上州弁読本」というのを読んでみようと思った。

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時代小説の舞台_藤沢周平&深川江戸資料館

藤沢周平の初期の名品集と裏表紙に書かれている文庫本タイトル「又蔵の火」を読んでいる。「主人公たちは、いずれも暗い宿命のようなものに背中を押されて生き、あるいは死ぬ」と作者が語ったとある。集められた各短編のストーリーはまさにそのとおりで、読んでる最中ははらはらしながらも結末に至ると、遣り切れなく暗く重たい気分にもなってしまう。

しかし、別の楽しみ方でこの本を見ている。先週末門前仲町~深川界隈に花見に行ったが、この短編の一つの舞台がまさにそこなのである。

・(六間堀の長屋から出て、)六間堀に沿って北にいそぎ、立川の手前で山城橋を渡った。(中略)松井町二丁目と武家屋敷の間を抜け、右側が常磐町の町屋になった町角で、左に曲がり松井町と林町の間を堅川の川岸に出た。

・堅川の水面には、夜の名残の霧が薄く残り、その下に岸を洗う微かな波の音がした。鶴吉は二の橋を渡った。渡り切って本所相生町と武家の間に入り、武家屋敷の西に続く松阪町の方をみた。

・屋台と、その下に倒れている理助を見つけたのは、一ノ橋を渡り、御船蔵の手前の石置場まで来た時だった。

・久永町から吉岡橋を渡り、山本町から霊岸寺の境内に飛び込んだ。さらに境内を抜けて久世家下屋敷と木誓寺の間の狭い道を走った。海辺大工町から万年橋に出て小名木川を渡るつもりだった。

以上は「割れた月」(島帰りの男と彼を慕う娘とのつかの間の幸せを描いた<裏表紙書き>)からの抜粋である。

他に二編が北千住~上野界隈や深川界隈を舞台にしている。(この作品集は、直木賞受賞後の二編と受賞前の三編の全五編からなる作品集であるが、後者が江戸の情景を描写している。)

常盤新平氏の解説にこう書かれている。「藤沢周平氏の小説を読んでいると、江戸時代の風景が目に見えてくるようだ。(中略)これは藤沢さんの小説の魅力の一つだろう。情景描写が的確であり、実に美しい。」

自分も読んでいると江戸の町が目の前に浮かんで来るような気になる。しかし、そこは実際は見たことが無い江戸の町であって、己のこれまでの知識経験から来るイマジネーションにはおのずと限界がある。藤沢氏の描写した情景との乖離があるのではないかとの不安や疑問は常にある。つまり作者とは別の世界を自分は想像して見ているのではないかという問題だ。

そう感じていたところ、上記先日の花見で「深川江戸資料館」を見学した。これは実に興味深いものであった。時代小説や古典落語を楽しむための知識を得るにはうってつけの展示だとあちこち観て回った。今回の見学でちょっとしたタイムトリップをして、江戸時代に生きた人々の実際の暮らしぶりや臭いのようなものに触れたような気がした。これまでよりもより深く時代小説や古典落語の世界に溶け込んでいけそうな気がしているのである。

またそこで販売していた江戸時代の地図を描いた「切絵図ハンカチ」を買った。これを広げながら藤沢小説の主人公たちの動きを辿ってみよう。あるいは池波正太郎の鬼平、密偵はたまた盗賊になって、その地図を眺めてみようと思う。

常設展示の内容は以下のURLから見れる。「同資料館展示解説書」を買い求めに再訪しようかと考えている。帰りには深川不動尊前の居酒屋に立ち寄るというプランだ。

http://www.kcf.or.jp/fukagawa/index.html

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裁判員制度

やさしく読み解く裁判員のための法廷用語ハンドブック
日本弁護士連合会裁判員制度実施本部 法廷用語の日常語化に関するプロジェクトチーム 編

2009年5月までにスタートする裁判員制度。裁判員6人と裁判官3人一つの事件を担当する。全員一致でないときは多数決で結論を出すことになるが、裁判員法は多数決について「構成裁判官及び裁判員の双方の意見を含む合議対の員数の過半数の意見」と定めているとのこと。裁判官だけまたは裁判員だけの判断では決められない。裁判員の1票は裁判官のそれと同じ重さを持つとのこと。

裁判員に選任されることからは避けたいと思っている。人を裁くということに自分は不向きだと思うからである。

しかし、裁判員制度について何も知らないで拒絶だけするのは我儘で傲慢だろうと考え、新聞だか雑誌の広告で目に止まったこの本を読んでみた。

刑法については良く知らなかったので大変勉強になった。法律の本にしては格段に読みやすかったと思う。

常識の線からは未だ難解で専門的と思われる部分もあるが、この本の内容くらいは理解した上でなければ、それこそ裁判員不適格だろうと思う。

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教育-自由か規律か

「英語のEducationは、辞書で調べれば、引き出すとか、導き出すという意味です。でも、東洋でいう教育という言葉は、おそらく日本人が考え出した言葉ですよ。教えるのも、育てるのも漢字にはありましたが、この二つの字をくっつけてEducationとするのは日本だけだと思います。(中略)私たちが使っている「教育」という言葉は、教えて育てるという意味で、引き出すという意味合いは少ないですね。」(宋文州氏)

「どうした、日本」,ダイヤモンド社,第5章,第159頁より

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スマイルズの自助論

「顔を高く上げようとしない若者は、いつしか足もとばかり眺めて生きるようになるだろう。空高く飛ぼうとしない精神は、地べたをはいつくばる運命をたどるだろう。」,第267頁

「自己修養においては、決断と機敏さも欠かせない。この二つの資質を伸ばすには、人間を若いうちから自立させ、自由行動の機会をできるだけ与えておくべきだ。過保護や目に余る束縛は、自助の習慣をつける妨げともなる。」

「自信のなさも、人間の進歩発展にとっては大きな障害となる。よくいわれるように、人生の失敗の半分は自分の馬が跳躍しようとしている時になって弱気を出し、手綱を引き締めてしまうところから起こる。」,以上、第207頁

サミュエル・スマイルズ「自助論」(三笠書房,知的行きかた文庫)より

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