文化・芸術

アリスコンサート in 大宮

待ちに待ったアリス復活コンサートに行って来た。

5月にチケット予約をしてから9月まで待った。長かった。

待った甲斐があった。生アリスは良かった。感動と興奮の渦の中であっという間のできごとだったような....

ステージに出てきたときは何だか3人とも小さく見えた。チンペイさんは少し猫背のようだった。べーやんは一番小さ!??(僕の個人的印象で背が低くくは無い。)

が、演奏が始まると一変。声は出るわ通るわ、観客は総立ちになるわで、谷村氏曰くの「このところの閉塞感」をすっかり吹き飛ばした。

観客は中高年が目立った。自分の年齢は中央値かちょっと下ぐらいか??皆大盛り上がり。この年代のエネルギーに火を着けるにはアリスのような特殊な起爆装置が必要だと感じながらその塊の中に身を置いた。

アンコールも終えて下手に退がってゆくアリスメンバー。べーやんは腰を折りぼろぼろに見えた。最後にチンペイさんが背筋を伸ばして手を上げて観客に応えながら舞台袖に消えた。観客からの「アリガトー!」の声を背に受けながら。

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事前復習していたにも拘わらず、演奏曲目には知らないものがいくつかあった。

また、メンバーズセレクションの30曲には知らない曲目が半分以上あることが分かった。ショック。これからアリスを再履修だ。

1 明日への讃歌
2 愛の光
3 誰もいない
4 黒い瞳の少女
5 今はもうだれも
6 遠くで汽笛を聞きながら
7 雪の音
8 あの日のままで
9 僕の想うこと
10 夏の終りに
11 帰らざる日々
12 さらば青春の時
13 冬の稲妻
14 何処へ
15 街路樹は知っていた
16 五年目の手紙
17 涙の誓い
18 ジョニーの子守唄
19 夢去りし街角
20 チャンピオン
21 秋止符
22 逃亡者
23 緑をかすめて
24 それぞれの秋
25 狂った果実
26 LIBRA
27 エスピオナージ
28 BURAI
29 さよならDJ
30 ライトハウス

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べーやんの歌は素晴らしかった。特に「遠くで汽笛を聞きながら」には聴き入った。自分としては1980年代頃良く歌ったが、「何も良いことが無かったこの街で~」の部分をいつも現実の自分に置き換えて気に掛けながら歌っていたものだ。自分には「本当に良いことは何も無かったのか?」と。それは現実の自分とは常に一線を画すものであった。しかし、今(いま)歳とって多少の波浪を乗り越える経験を積んで来て、不幸な時期も過去のことと思うとすんなり受け容れられる気がした。(でもまた転職活動や就活でもしてるならむかしと同じ感じ方をするかなとも考える。)

「チャンピオン」は盛り上がった。この歌の歌詞も若い頃は違和感があった。自分としてはある時期から単にボクサー(格闘家?)をモデルとした歌としてではなく、サラリーマンとかすべての現役ワーカーをイメージした歌のように受け止めていたからだろうか。年老いて全盛期のピークを過ぎたボクサーが若い力に溢れる挑戦者に敗れて引退を決意。「これで唯の男に戻れる。」と切れた唇で呟く。今アリスメンバーも皆約60歳となり、そのファンたちもそこそこの年となりピークアウトして後進に道を譲るときが近づいて、やっと思い荷物を下ろす気持ちのけじめを着けられるようになった。この曲もまた自分の姿を映してみて、若い頃とは違う今の自分として新たな思いを持って受け容れられる曲になって来たなと感じた。

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谷村新司ブログより 「アリガトウ大宮!」

http://www.tanimura.com/forum/2009/09/003334.php

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徳川家康のことば

人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。 急ぐべからず。
不自由を常と思えば不足なく心に望みおこらば困窮したる時を思い出すべし。
堪忍は無事長久の基 怒りは敵と思え。
勝つ事ばかりを知って負くる事を知らざれば害その身に至る。
おのれを責めて人を責むるな。
及ばざるは過ぎたるより優れり。

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水神_三遊亭圓窓

菊田一夫作「水神」を三遊亭圓窓の長講一席で聴いた。(NHKBS「お好み寄席」で)

なんとグランドピアノとのコラボレーションという趣向での高座だった。圓窓師匠曰く「演奏と圓窓が大事。」

照明等の効果も加わり素晴らしい演出だと思った。

最初は何だか少し違和感を感じながら聴いていた。落語の語りにピアノの音が何となく馴染まない感じがしたのである。演題も古典ではなく、面白話でもなく、静かな調子の語りであった。

しかし、圓窓師匠の高座には大きな期待を持っていたのと、この噺を聴くのは初めてではなかったことから、そのまま聴き続けた。そして次第に引き込まれて行ったのである。

赤子を抱く男やカラスの羽の動きを表す手の動作や羽織の使い方などにも新しいものがあった。

ストーリーそのものは女房に逃げられた侘しい男と人間の女に変身したカラスの恋愛物語で、やや怪奇的な要素もあるが、最終的にはハッピーエンドに終わる。しかも終わり方が従来の落語とは全く異なる印象深いものでたいへん良かったと感じた。

詳細は次に詳しく紹介されている。

乱志&流三の落語徘徊

http://ranshi2.way-nifty.com/blog/2009/06/post-9edf.html

「水神」は「君の名は」で有名な脚本家菊田一夫が円生のために書き下ろした新作落語とのことである。

詳細は以下のURLを参照方。

続きを読む "水神_三遊亭圓窓"

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ライオンキング

ヒヒの呪術師の言葉「過去からは逃げるか学ぶかだ。」
ミーアキャット・ティモンの人生哲学「ハクナ・マタタ(気にするな)」
つまり、過去には背を向けるということ。過去から逃げるということにつながる。
シンバは過去から学びプライドランドの再建を決意する。
この部分が一番印象に残りまた勉強になった。
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日曜日の昼に劇団四季のライオンキングを鑑賞した。
約3時間のミュージカルは感動する場面もあってなかなかよかった。
舞台装置、衣装、歌、踊り、演奏、演出、構成など、目を見張って観た。
ストーリーはややシンプルで物足りなさもあるが、全体的に質の高さを感じた。
毎回毎回あのようなミュージカルを展開するにはかなりのテンションの維持や集中力が必要だろうと思う。
人の歌声の素晴らしさにも触れた。自分の下腹に響き渡るように届いてきた。その日の夜の風呂では自分も良く声が出た。
戦いや男女の愛の芽生えなどを踊りで表現するところなど興味深く観た。
いろんな想像力が駆使されたミュージカルで楽しいものだった。

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奇形と化した人間?

新聞や雑誌のエッセイを読むのが好きだ。最近はフリーマガジンなどにも結構良いと思うエッセイがあって毎号楽しみにしてたりする。

筆者の思想に触れて、多様な世界観や考え方を知り、一方自分なりの感想を思い、あるときは自分の思想の参考にする。手軽な気分転換や脳トレーニングになっていると思う。

毎日新聞のくらしナビ欄に直木賞作家篠田節子氏のエッセイがスタートした。題して「男子禁制!ロッカールーム」。第1回は「色恋より重要なことって?」である。

男としては「一体何が書かれているのか?」と興味を惹かれた。全文は今日の朝刊11面と次のURLで読める。

http://mainichi.jp/life/housing/news/20090411ddm013100117000c.html

篠田氏が直木賞作家ということは読後に知った。直木賞を受賞した他の作家のエッセイも読むことがあるが、自分にとっては面白いと思うものが多い。さすがだなと感心する。いつか本も読まなくてはと思っているのだが、こちらは時間的にお手軽ではないような気がしてなかなか実行できない。

さて、上記第1回エッセイの結びのくだりにいろいろ考えさせられた。

『何年もの眠りから覚め地上に出てきて、餌も食べずにただひたすら、交尾の相手を求めて飛び回っては短命に終わる。』蝉の生態を思い、

「無常観とともに、生きるっていうのは、それほど複雑なことではないのかもしれない、などと思う。

 虫と人を一緒にするな、と言われればそれきりだが、進化しすぎた巨大な脳と長すぎる寿命を持ったために、もはや奇形と化した人間は、生の目標と努力の方向を間違えながら、戦争を起こしたり明日の糧まで食いつぶしているような気がしてならない。」

今日のところでは、僕としても、人が生きるのも結局は複雑なことではないのかもしれないに同意する。人も生きている間は蝉と同じように当面の事柄に一生懸命になるだけなのだろう。蝉と違う頭脳で目標と努力の方向を変えたとしても、結果的にさほど大きな違いを生み出すことも無く、蝉と同様に一生を終えるといえないだろうか?

若く経験が多くない人たちは人生を、そのように悟り切ったようには捉えないだろう。若い頃は生来の潜在的情熱に溢れ、苦悩への感受性も高いし、夢や希望への憧れも強烈だろう。

では年を取り、様々な生経験を積んだ人たちは自分の人生を冷静にレビューできるのか?そのような傾向は有り得ると思う。しかし一方で払い切れない煩悩があれば、若い頃とは異質の欲や苦悩や悔恨を持ち得るだろう。

要するに自分にとってはいつも現在進行形なのである。未知の未来に向かって生を全うすることが全てであろう。その点では人間が奇形と化したとまではいえないのでは無いだろうか。人類の進化や築いてきた文明も、人間が奇形と化した結果とまでは言えず、当然の帰結ではないのだろうか。

しかし、今回のエッセイのテーマは一応「恋愛」とのこと。異性の相手との関わりであるという点で、「生きる」上において自分だけの思想感情では解決・解釈できない問題である。

また人も一生物として、第一次的には何かの衝動のようなものに突き動かされるのであろう。しかし、高度に脳化された社会や仕組みの中で、そのような原始的衝動を喪失し、あるいはその衝動の対象や方向が本来のものとすり替わる(異性から同性へなど)個体比率が多くなったりしたら、あるいはそれは奇形の兆候かもしれないと思ったりする。

「色恋より重要なことって?」、で始まったエッセイのこれからの展開からは目が話せなくなったと思うのである。

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江戸一目図屏風

落語「昭和の名人」(決定版)CD付き<小学館>を購読している。

先日新聞記事で読んだが、随分人気があるようだ。

CDは音が良い。現在の第5巻までは話も解説本も内容が充実していて、お値段以上の価値があると思う。

先月居酒屋で友人のT氏が是非とも見せたい本があるといって鞄の中を捜したが結局「忘れてきた。」と言った本もまたこの冊子だったとのこと。

この冊子は実に面白く、興味深い。いろんな挿絵や写真もあって楽しいし、理解も深まる気がする。

特に第2巻五代目「古今亭志ん生」には、標題の江戸一目図と落語鑑賞の基礎知識「らくだす」が付いている。

この江戸一目図は見ていて飽きない。1809年鍬形惠斎作ということで、今からちょうど200年前の江戸の様子が描かれている。

いろんな落語の舞台でもあるし、加えて時代小説の場面にも繋がる。

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これまでの落語CD鑑賞は聴くばかりで、その他の関連情報は本を買って知識を得てきた。しかし、落語の演目の解説に偏った本が多かった。その後、江戸庶民の風俗や生活、地図などをポツリポツリと集めてきては眺めていたが、やや効率が悪いと感じていた。

その点、今回のシリーズ本は順次配本されるそれだけを読んでCDを聴いていればかなりの知識が得られる構成になっていると思う。

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八月の狂詩曲_黒澤明監督作品

おばあさんは最後に大切なものを思い出しまた気付いたのだと思う。

血縁、命、平和。そして、巨大な恐怖、原爆を忌み嫌う心だ。

兄銀次郎は異国ハワイで孤独だったと思う。年老いて病気になってたった一人の妹であるおばあさんにとても会いたいと思ったことだろう。おばあさんは銀次郎が亡くなったときに会いに行ってあげるべきだったと激しく悔やんだ。

戦後45年経っておじいさんが原爆で死んだ悲しさ、原爆を投下した米国を恨む気持ちも薄らいでいると語る。が、心の底にはある人間不信がある。

「戦争に勝つためにはどんなにひどいことでもやる。自分自身をも滅ぼすようなことも。」

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壺算_落語のだまし

落語のジャンル区分にはいろんな分け方があるが、立川志らくの落語辞事典の分類は面白いと思う。それによればこれは「だます」のカテゴリーになる。

水がめを買いに行って、まず一荷入りの水がめ二円五十銭(これは一円五十銭や三円五十銭やいろいろな設定がある)を値切って二円で買う。担いで一旦店を出て再び店に戻ると、本当に欲しかった二荷入りの水がめをくれという。本来なら一荷入りの二倍の定価で五円のところを、さっき値切られているので四円と言うことになる。店の番頭(主人の設定もある)は「お買い物上手には敵いません。」と感心するが、話は続きがある。すると一荷入りの水がめは要らないから二円で引き取ってくれというのだ。さっき渡した二円に引き取り料の二円を加えて四円だというので、まんまと二荷入りの水がめを貰って行こうというのだが....

聴いているうちに混乱してくるところが面白い。

だましのカテゴリーでは他に、「時そば」、「まんじゅうこわい」が有名である。これらも実に良くできたお話である。しかし、最近は生活スタイルが変わり、時そばのような勘定の精算の仕方や、饅頭が唯一の甘いものということは無くなったので、高座に掛ける方も笑いを取るのが難しくなったとか。寂しいが致し方ないことである。

だましの中でもさらに高度なテクニックと思うのが「付き馬」である。吉原近辺を舞台にしたストーリーであるが、また後日感想を述べたいと思う。

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姿三四郎_黒澤明監督作品

矢野正五郎が夏祭りで喧嘩して多くの相手を投げ飛ばした三四郎を叱咤する場面での台詞。

三四郎はこの後庭の池に飛び込み、木杭につかまり水中で一晩を明かす。翌朝一輪の蓮の花が咲いているのを観て自分の柔道の道を悟る。

矢野:
「理性も無く、目的も無く、狂い回るのが人間の道か!?
人間の道とはこれこそ天地自然の真理である。
この真理によってのみ人間は死の安心を得る。
これがすべての道の究極の一点だ。」

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時代は明治15年。映画に登場する柔術家の胴着は現代の胴着と比べると袖も股下も短くて、みんなサイズが一回り以上小さいのを着ているようだ。

そして三四郎の胴着はいつもボロボロのつぎはぎだらけである。これは三四郎の修行の激しさも示しているかのようだ。しかし、三四郎はそれをさして気にすることも無く勝負に集中する。ボロは着てても心は何とかというやつだ。現代では人は見かけが大事だというので老若男女問わずファッションセンスを磨かないといけないということになっているが、人間の中身も伴わないといけないだろうと思う。

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この映画は過去に観たことがある。それも随分前、自分が幼少の頃から何度か観たような気がする。久しぶりに見て、冒頭に書いた蓮の池の三四郎の姿がいきなりフラッシュバックしてきたからである。

小さい頃よく祖母に連れられて近所の映画館に行ったことがある。その時分に観たかあるいは別の機会だったか?とにかく映画を観たときの強烈な印象が潜在記憶の中に残っていたのだろう。

三四郎が小夜の下駄の鼻緒を挿げ替える場面がある。このときもまだ小さい時分に親たちが下駄の鼻緒を挿げ替えるのを見たことがあるのを思い出した。自分でも何度かやったことがあるのではないだろうか?

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三四郎は女性に対して初心である。小夜に対して言う台詞が「いいです」ばかりのところが2箇所あった。

「いいです。」では気持ちが伝わらないし、何がいいかも不明確だと、思われるところだが、強い男がそのような不器用さを持ち、また、思いやりの心情を持ちあわせているというので、人間的魅力になっている。

対照的なのが桧垣源之助である。自分の欲求が全面に出る男だ。強いが危険な香りがぷんぷんで人望が得られない。悪人の象徴として描かれているが、最後に三四郎と決闘した後人間が変わったとのエピソードが語られる。全てハッピーな終わりにしているところに明治時代または映画が製作された昭和18年から19年頃の日本人の心情を表していると思った。

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この映画は昭和19年の上映に際して、国策によって大幅にフィルムカットされたとのこと。カットされたフィルムにどのような映像が写っていたのか興味があるが、残念なことに戦時中のことでその部分が散逸して見つからなかったと断りが述べられている。

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古典落語に嵌る

毎週3枚(多いときは6枚)のCDをこのところ欠かさず聴いてきた。5月から始めただろうか?また、NHKの「日本の話芸」等も毎週欠かさず観ている。

演題は延べ約280になる。まだ一度ずつしか聴いていないが、感動や名人芸に感服の印象が残る師匠やタイトルが数多くある。古今亭志ん生(五代目)、三遊亭圓生 (六代目)、柳家小三治、立川談志、立川藤志楼(高田文夫)ら、それから、初天神、うどん屋、火炎太鼓、大工調べ、野ざらし、船徳、居残り佐平次、付き馬等々、お気に入りの師匠や演目を思いつくままに書き出そうと思ったが、正確に書けないので別途まとめることにする。

最初は一席15分程度のものを聴いていたが、一席約30分程度のものの方が感動が深いように思う。長編もあって、つくづくその記憶力と聴衆を飽きさせない話芸に感心する。

中には「芝浜」や「らくだ」のように歌舞伎の演目になったものもいくつかあるようで、その文化の広がりや時代考証や生活の知恵や今日の日常生活との比較等についてもいろいろと好奇心が刺激される。

最近は復習と予習のために「落語二四八辞事典」や「落語手帖」なるものを購入して読み始めている。これは短編集のようなものなのでいつでもどこでも読めて、結構楽しい。内容は概要や触り程度のものなのでやや物足りないと感じることが多い。

それにしても、一行あらすじで調べたタイトルだけでも軽く1000は超えるから、これから全てを聴くには相当の根気と時間とCD等の所在の検索・調査力が必要になる。

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