TVで「秋葉原通り魔事件で3人死亡」の速報テロップを初めてみたとき、家内と相談してすぐ一人暮らしの息子に電話した。
やや不機嫌そうな声で(しょっちゅう電話で近況を尋ねるためと思われる)電話に出たらしいが、無事を確認してほっとした。
次は会社のメンバーが気に掛かったが、これはさすがに休日でもあり電話するのを躊躇して止めた。
その後ニュースの続報で事件の状況が分かってきたが、驚くばかりである。
死傷者多数の大惨事となって、今日のニュースでは犯人(25歳男)の犯行の計画性や動機が焦点になっている。
しかし、このような他人を巻き添えにして自分自身も破滅に追いやる若者が多く出現することに、僕としては彼ら自身だけでなく、彼らを取り巻く社会環境にも問題があるのではないかと思う。
現代日本社会では、人生や社会の中における価値観の多様性が失われて、限られた人生の選択肢しかないように感じる若者が増えているのではないだろうか。予定していたコースから一度でも外れると、もう自分はそのコースには戻れないとか、自分一人の力ではもはや将来に希望は持てないとかいう風に考えてしまうのではないかと思う。違う別の道があるかもしれないことに思いが至らないことに悲しさを感じる。
自分の子供たちも、彼ら事件を起こした若者たちと同じような世代であるが、親として子供たちに社会の多様性を教えてきた自信があまり無い。自分は子供たちがある程度大きくなってから(思春期の前後頃だろうか)はとにかく仕事に精を出し、ときに家族サービスすることだけで生きてきた。
いじめによる登校拒否等の話など学校に問題があるとは思いながら、自分自身を振り返り、親とはあまり関係なく、学校に通い勉強やスポーツをやって育ってきたのだからと、多くは学校や塾任せでとにかく勉強しろよと子供たちに言いながら接してきたように思う。よく言えばわが子を信じて放任してきたのである。
ところが、教育指導要領によるこれまでのゆとり教育などで子供たちの学力は相対的に低下してきたと報道されるようになった。学校も自分が学んだ頃の昔とは違っているのだと後から気づいた。子供らの学力劣化という代償を支払わされた上で、そのような国の教育システムの不備を開示されて、誰が責任を取るんだ、一体日本はどうなっているんだと思う。
家内は、勉強ができなくても、それなりに生きていく世界があると楽観的に考えていた。僕は反対に勉強ができて良い学校に行って、良い就職をすることで幸福になれると考えていた。
僕のような親の考えを刷り込まれた子供は勉強で挫折した場合、現在の価値観の多様性に乏しい日本の社会の仕組みの中では、最早未来への自分の道は閉ざされてしまったように錯覚するのではないだろうか。
一方、家内のようなアプローチで、今の社会で本当に幸せをつかめるか?
社会的価値観と個人的価値観は違う。前者は押し付けがましいものである。人生経験も無い若者は個人的価値観など見出せないだろう。どうしても非多様的な社会的価値感に押し流されてしまうのではないだろうか。すると挫折を感じた若者は自立の機会を見出せないということにならないか。
多くの若者にとって、自分は何をやりたいのか、自分は何ができるのかということははっきりと分からないのではないかと思う。そのような前提で若い内にはいろんな失敗とやり直しが許される社会を提供するのが大人の務めだと思う。大人が、若者に対し、性急に経済価値や効率を求めたり、あるいはそのための制度や階級を押し付けることを止めるべきなのではないか。
さらに、人は一人では生きて行けない動物である。一方で都会では地域共同体が破綻して、アパートの隣人の素性すら分からないで一緒に暮らすのが常態となっている。不完全且つ不安定な個人が隔絶された空間に閉じ込められている。防犯対策としては防犯カメラで監視するくらいの発想しか出せような不安全な環境を作り、そこで互いに見知らぬ人々が暮らしている訳である。むしろ人と人とのつながりを希薄にした非干渉システムの方がより良い住環境とすら言える社会になっている。こういうことも本来はおかしいと思われるべきであろう。
まとまりが無いのでこの辺でやめるが、今回の事件では、その社会背景を正しくとらえて、修正できるものは早急に修正していかなくてはならないと思うものである。
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